昭和50年09月08日 朝の御理解



 御理解 第81節
 「氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへ降りたらそれで安心じゃ。気を緩めるとすぐに後に戻るぞ。」

 昨夜は総代会で御座いました。そこでお話をした事で御座いましたけども、総代だ幹部だとまあ熱心な信心をさせて頂いておっても、その信心が子供に伝わらない。信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよと教えられるのに、末の末まで教え伝わらない。どう云う事だろうか。何処の教会を見ましても、あっちのお父さんの時は大した御用も出来たし、大変信心が出来なさったけれども、後に続かんと言うのはどうした事であろうかと、しかもこんな有難い信心が子や孫に伝わらないと云う事。
 伝わらん所か、もう影もなくなって行くと言う例ですら珍しくはないと言う事。折角一つお互い信心をさせて頂く事ですから、矢張り自分自身本当に有難いと言う物を頂くと同時に、それを子々孫々、子に孫に伝わって行くだけの物をです、頂いておきたい。皆さん、皆さんの周囲を見て下さい。これは金光教だけではないかも知れません。これが例えば、生きた働きと云うものをまあ持たないと云うと大変希薄な宗教やらは、例えばその人の家が神道であるならば、やっぱり神道のそれを継いどります。
 仏教辺りは特に代々仏教で、それは只御先祖を祭るとか御法事をするとか葬式だけはどうでも、矢張り仏教でなからねばならないと言うのですから、もうこれはどこまでも観念的な宗教ですけど、金光様の御信心はそれに反して、何時も絶えず生きたものが伴うておらねばならない。でなかったら宗教の値打はないんだと言う風に極め付けて頂いて行くのです。ですからその生きた働きと云うものを銘々が家庭の上にも頂き現して行くのです。本当に御信心のおかげで日々御取次を頂いて。
 おかげを頂いておるおかげで御用をすれば、おかげを頂くしお参りすればするだけおかげを頂くし、もう実にそれは或意味では現金なんです。そういうそのおかげがお参りすればするだけであり御用すればするだけ頂くのであるから、そのお参りがいとわしくなって来るその御用が出来なくなって來る。そうすると信心が止まってしまってその親の代だけは何と申しますかね、まあ今日は私は九里半登っても安心してはならん。まあ九里半の所迄は皆が登っておるそしてこの辺で下らん様にブレーキを掛けておるだけじゃ。
 だからそのブレーキがとれるとその親が亡くなると、はあ親はそうにゃ参りよったばってん、子は参らんと言った様な、そして金光様の信心そのものを失うてしまうと言う例が私共の五、六十年自分の信心を頂いておる間に見聞した事の中にです、あっちのお父さんは熱心だったから息子さんが、やっぱりあげな熱心な信心を受け継いで御座ると云う様な所は非常に少ないと云う事。だから折角おかげを頂かなければならん。それは参れば参るだけ確かにおかげを頂くです。
 確かに一歩でも無駄にさせんと仰るが、確かにそうです。そこで例えばおかげを受けなければならんからと言うのではなくて、信心の有難い信心を身につけさせて頂いて、おかげを頂かねばいけない訳ですがね。気を緩めるとすぐに後に戻るぞと。だからその程度の信心ではです。確かに後に戻る。そこで向こうへ降りたら安心じゃと仰るのですから、向こうへ降りるところまでは信心を極めとかにゃもうブレーキを踏んどかなくてもです、向こうへ降りたら安心じゃと。
 その安心の行く所まで私はおかげを頂いとかねばならない。信心を極めとかねばいけないと思います。後へ戻らんと言う様な信心。向こうへ降りたらと言う信心はどういう信心をさせて頂いたら頂けるだろうかと云う事で御座います。昨日そこん所を総代さん方にも聞いて頂いた。本当に合楽の総代さん方は椛目時代から何十年間か続いている訳です。そりゃ総代さん方以上に修行する人は、それは沢山ありますし又御用の出来る方も、沢山ありますけれども、合楽の総代にはそういうものが一つもかけてないです。
 御用をして貰わんならんとか、総代としての世話をして貰わんならんと言う事が一つもかけてない。只総代は御祈念係だと云う風な意味で、総代さんの信心を買うとります。ですから、他の教会で総代がしなければならん事は、もう次のまあここで言うと、菊栄会なら菊栄会、松栄会なら松栄会の方達が、総代さんがなさらんならん御用の、実際の実働の御用は承っております。
 ですから総代さん方は毎日、日参のおかげを頂いて、十人の総代が毎日、日参さして貰う朝参りが出来ない人は、御祈念の後にお参りして來る。そして願う事は合楽教会大発展と云うことを祈らせて貰う。それが総代の役目だとそれだけなんだと、だから年寄りでも御用が出来なくても良い訳なんです。その代わりにです結局参らなければおられない、と言う信心だけは身につけて行けとこういう訳です。
 だからそういう信心が成就した時に初めて、向こうへ降りた信心と、言った様な事が言えるじゃないかと思うです。総代が十名おります。その十名が十名とは言われませんけれども、いわばその総代の中堅をなします方達の場合は、云うならそれが出来ておる、合楽教会の事を願わんならんけん参りよるではなくて、一人一人の総代さんの事を思うてみるとね、確かにそれが出来ている様にある。
 総代だから御用せんならん、総代だから一際違った、御用させて貰わんならんお供えもせんならんと、云うた様なものを全然合楽ではかけてない、総代さんにね。只問題は手篤い信心が出来られる事だけ、しかも本気で合楽教会のおかげを頂かせて貰う。この頃から三百万余り掛かった、光昭の部屋が出来た。今度は布団部屋が出来る。それが何と八百二十万からかかる。つい最近はついそこに一千万余りの土地を買うた。またすぐ上に今度は相当金額の他所を買わせて頂くための交渉があっておる。
 そう言う様な事なんかでもです。言うならば或意味で総代を総代として見ていないと言う風な見方もないじゃないですけれども、総代さん達が知らぬ間にそれが出来ておると言う事です。今度例えばそこに八百二十万のこれは建てるだけで八百二十万かかるのです。掛るもんですからね私はたまがった。今若先生達の部屋の上に出来るんです。そりゃ今度親教会で今御造営が始まって家壊しの殆どが済みましたが。
 もうそりゃ安い事にたまがる。理づめがよかと思う。二千四百万で出来る。立派な会堂が出来る。それに御神殿だけは別ですが、御神殿だけは六百万で出来ると、家にはちょっと布団部屋だけ出来るとが八百二十万も掛る。そりゃちっと間違うとらんかと言うごたるけれども、そうではないらしいんですけれども、そりゃもう総代さん方が寄りに寄り、何遍も何遍も何十回となく寄って出来るだけ安かとこ、山に木を切りに行ってから、ところまでその替りやる。
 家壊しでも何でも総代さん方がしなさいます。所が合楽の場合はそれをしない。只総代さん方は、云うならば先日も或総代さんが言う、材木がばさらか集まりよるが何事があるとですかと言う。もう着手しておる訳です。それを見た時に総代さん方が本当におかげを頂いて、私共が知らぬ間にこういうものが出来て行くから有難いと言うとります。それは日々祈っとるもん願っとるもん。教会の大発展を願っとるその中に、あら何時の間にか土地も広うなっとる、こういうものが出来ておる。
 何時の間にか材木が集まっとる。何かガタガタしようらんならそれでも分からないくらいなんだけど、総代が知らぬ間にこげな事をしてと言う総代は一人もおらん。日々祈りを持たせて貰う。日々いのりをさせて貰う。ですから出来とるんだとこう思うているんです。だから、御礼を申し上げる以外にないんだと言う様な信心が合楽の総代の信心です。あれが他所あたりの総代ならやかましい事じゃろう、総代を馬鹿にしとる、こげな事を総代に相談もせんで。
 相談せん訳じゃないけど、着手してからこげんしたもんのと言うて、まあ私も言わんがその係の方達がお話をする位の事、それなら皆さん御苦労さんと言うとけばそれで良いと云う感じです。只強力な祈りそれも只願わんならんと言うても、自分の事ではない。只教会の大発展が、そのままお道の発展に継ながる事であるから、合楽教会大発展を願うとりゃ、そのまま金光教の発展であると同時に、いうならば世界真の平和を願うとか、和賀心時代を創るとか云う程しの、大きな願いに通ずるんだと。
 通うんだと信じての、合楽教会の大発展であります。だから研修会なんかで、総代は私だん合楽教会の大発展を願うとると言うと、もう合楽の奴どんばっかりは、我が教会の事ばっかり願って、ちっとは隣近所の教会の事も願わじゃこてと言う話が出るそうです。そげん隣近所の事まで願われるもんか、もう合楽教会の事だけで腹一杯なんだ。しかもその合楽教会大発展は教団の発展につながるんだ。世界真の平和に継ながるんだと言う大きな見地に立って日々朝参りが出来る総代さんが四、五人でお届けされる。
 後から参って来た総代さん方もやはりその事を願う。私はそういう信心がすっきりと出来ると言う。おかげを頂いたらです、これは私は絶対だと思いますね。もうむこうへ降りたら安心じゃと言うが、それがただ口先だけであるなら、それはつまりませんよ。けど自分達日参がです、本当に合楽教会の大発展の為に、それをお取次を願わんならん、お願いをしなければならないから、お参りをしておると言う。ならこの二十年間信心が続いておられると言う事が本当なものになって來る信心を私は向こうへ降りたら安心じゃと言う事に成ると思う。
 もちろん各自の願いがない訳じゃありません。そのお届けが終ったら又一人一人各自日々のお取次も願われますけれども、先生方がお取次を頂いて、そしてその次に総代さん方がお取次を願われる時は、只今日一日の合楽教会の様々な行事の事から教会大発展の事の願いである。だから教会で何処のどういう金入りの事がありよっても、総代さん方は知らん様な場合ですらある。
 それに気付いたら、本当におかげを取次頂いて有り難いと御礼だけしかない事。そう言う所にね私は素晴らしいと思うんです。その信心がそんなら総代さんだけの専売特許かと云うと、いやそうではないと、合楽教会大発展がそのまま教団の発展、教団の比礼、云うならば世界真の平和にもつながろうかと言うほどしの、事であるから各自がその事を芯にして願える様な信心。
 これはなかなか出来る事じゃない。実感としてです自分のものと下り坂は急がん者はないと言われる程に自分のことなら熱を込めたそれこそ、朝参りも出来るけれども二十数年間、言わば合楽教会大発展の祈りをさせて貰う為に、合楽の総代さん達が日参の、おかげを頂いておると云うものがです、私が今日は色々な意味合でそういう内容をもって出来られる様なおかげを頂いた時に、初めて安心じゃと言う事をね、神様がもうあの氏子は安心じゃと言うその事なんです。
 向こうへ降りたら安心じゃと言う事はね、もうあの氏子だけは放っといても大丈夫それこそ人の為世の為、教会の為にです、二十数年間お日参りを続けておるのであるから、合楽の総代は代わらんでよか。そこでですまあ合楽の総代さんが、言うなら出来た様にお話をしましたけれども。今日私がお話をした様な内容で、この日参が続いておるならばと云う事ですから、なら総代一人一人が考えて見なければいけません。
 あれはほんに自分もそうじゃろうかと、合楽教会の大発展を祈っとるが、果して自分の事より合楽教会の事を、言うなら教会愛に燃えての日参であろうかと言う所は勿論、すっきりする為にもっともっと反省しなければならないと、言う事で御座います九里半登っても安心してはならん油断をしてはならん。私は昨日こう言う事も聞いて貰ったこの頃もうここ一年余り、久富先生と一緒にお食事を頂きますから、先生は大変御神酒を好きですし、まるきり私が相伴している様な事ですからまあ一本づつ頂くのです。
 それがこの頃弱りましたから、呑んで仕舞うたらもうぐったり寝てしまうのです。それでもう八時の御祈念に出て来られん位に寝てしまうんです。昨日なんかも目が覚めたのがもう八時十五分位。けれども総代会が今日あるから、やっぱりどうでも出にゃならん。もうその起きてからするまでのしるしい事しるしい事。それでもまあ起きさせて頂いたら、もう早速電話が掛かって来た。早速お参りがあった。それが私でなからん人が電話を掛けて来た。私じゃなからんならん人がお参りして来とる。
 だからきついけれども、しるしいけれども、やっぱり出なければおられない事になる訳です。私は昨日例えて言うと、なら八時間なら八時間寝らなければ出来ない時がある。それでもやっぱり起きる時はしるしか。段々信心が進んで来ると六時間でよか事なる。その六時間で起きると、ちいとはしるしか。段々おかげを頂くと、もう四時間で済む様になる。私は信心が進む言う事は、そう言う事だと思うです。だから一生が修行と仰る教祖の修行はそう言う事だと思うです。
 例えば今の事で言えば、もう眠かけれども起きると言う事は、一生が修行なのです。ですから、眠かつば辛抱する事は、何時も同じ事の様ですけれども、ところがそうじゃない。信心が進むに連れて初めの間は八時間眠らなければならなかった。次は六時間でよい。次には四時間、その眠いから只しるしいからと言う所だけは変わらんけど、内容と云うものは、大変高度になっていると言う事です。これはね、眠るとか眠らんとかそげな事だけじゃないですよ。
 一事が万事にそうです。小学校の時中学校の時、云うならば高校大学と進学して参りますとです、第一習う事も違えば教えて貰う事も違う。けれども愈々試験と言うなら心積りとか勉強とは同じなんです。小学校が大学の勉強する、出来る筈もない。だから出来ん事を云うのじゃない、出来る事を云うのだ。私はね、里半登ってもあと半道を大事にしなければならないと言う事はです、そのしるしいと思う時にです、そこを辛抱する心が強くなる。こういう辛抱が辛抱の徳が身に付いて來る。
 これが九里半の道を登ってあともう半道と言う所の私は修行と云うのはそこなのです。ですから、そこを登りきったら楽な、矢張り登りきって向こうへ降りたら安心じゃと云う事になる。言うならば小学、中学、高校とのその試験にパスして最高の学府を出た時に、云うなら学問の全てと云う事ではないでしょういけれども。もう最高の学問を身に付ける事が出来る様に、最高の信心を身に付けると言う事。峠を越えて向こうへ降りた時なんです。その降りたところを安心の境地と云う訳である。
 又は神様があの氏子は、ああ云うお試しにも度々に合格しておるから、もうあの氏子はどこに置いとっても間違いがないと安心して下さる、神様が安心して下さる程しの私は信心を向こうに降りたら安心じゃと云う風に今日は聞いて頂いた訳です。だからここまで、なら九里半までなら、これは小学校でも中学校でも九里半と言う所がある訳でしょうが。だから九里半までは落第をせん限り大体の者が実は出来ておるんだと言う事です。けどあと半道のところは良い加減にしておると言う事です。
 その半道こそが、言うならば修行だ。云うならば辛抱だと言う事です。もう今日だん御無礼してもうきつうして堪えん。と言う所へです、そこへ一生が修行じゃと仰るのは、矢張り修行に苦しい事が伴わん事はない筈ですから、矢張りそれを修行として頂いて、受け抜いて行くところに、ああ本当に今日はきつかったけど、辛抱し抜いて良かったと。お参りをして帰った時、これはお参りだけの事ではありませんけど、いろんな事でもです、腹を立てないとか、もう人の悪口は言わないとか。
 人を責めないとかと言った様な事でも、責めにゃおられんと云う様な場合に、例えば金光様金光様でそれを有難い事にして行く。その後の気持ちの良い事は素晴らしいおかげで落第せんで、済むと云う事になる。その向こうには必ずおかげが待っておる。例えば昨夜でもそうです。八時半頃此処へ出てきた。出て来たら早速私でなからにゃんらん人から電話が掛かって来ている。私でなからにゃならん人がお参りして來る。
 そしてああ辛抱して良かった、今日は一寸御無礼しますと寝とったらこういう大事なお取次が出来なかったと云う事になる。本当にしるしいと云う事が修行である。だから自分の得手勝手な信心が、例えばそれが子にも孫にも伝わって行く様には先ずはなれない。子には伝わっても孫には伝わらない。孫には伝わっても曽孫には伝わらないでは詰まらん。それではいけません。それでは子々孫々に末の末までも教え伝えられるものと言うのは、やはり御神徳である。その御神徳は九里半まででは頂けない。
 あと半道をきわめたときに、そして向こうへおりた時に私はおかげを御神徳と言うならば、そういうご信心の上に御神徳、ほんにあの総代さんは熱心だった、あの御用は素晴らしかった、あの人はと言う様な人達がです。その人一生一代はたえておりますけど、子や孫には伝わらない。そしてかげもほろけもないごたる家すらいくらもあると言う事実を思う時にです、必ずしも金光様の信心をしているから子孫繁盛、家繁盛ばっかり頂いておる信者ではないこと。
 それは或意味に於て生きた働きがあるから、また殺す働きもあると言う事。まあ仏教を例にとってはならんけれども、仏教の様におかげとか御利益には。繋がってない只お葬式のため。御法事の時だけのための仏教、金光教になり果てたらね、こりゃまた別かも知れません。ところがどうでも金光教の場合はおかげを受けなければならんのです。ですから、そのおかげと信心が相まって行く事が、九里半あと半道と言う所を大事にして行けれる。信心をしるしかろうけれども、矢張りそこを極める。
 そして極める喜べる頂上を極めた登山する人が極めた時にです、それが極められんで半道位のところに只見上げて来ただけであっては残念でしょう。やっぱり極めなければ。そこの信心を皆さん頂いて頂きたい。今日はその事をですここの合楽教会の総代さん達が、先ずはそこが出来ておられる様な風に聞いて頂いた。実際は出来ていないと思うです。けど二十何年間合楽教会大発展の事を、祈って日参しておると言う事を。
 それは事実ですから、信心を果して私の信心はと、総代さん方がもう一遍反省させて頂いて、これは一生合楽教会大発展の為にお参りの修行が出来ると言う様な安心と云うか、信心の喜びと云った様なもの、又或意味に於ての責任感と言った様なものが修行がやってのけられる。昨日聞かせて頂いたんですけども、吉井の熊谷さんが七十六げな、久留米の佐田さんも友達げなが、そこで総代が出らなければならない時は欠かすことなく出られる。それで毎日の日参を欠かされた事がない。
 しかも、二十何年間続いている。それが本当に合楽教会大発展、教会愛に燃えた、教団愛に燃えた、この私共のささやかな信心が世界真の平和につながる程しの意欲と願いをもってお参りが出来ておられるなら、これは先ずは立派なものだ。こういう信心ならば後に続かない筈はない。と、云う意味で聞いて頂いたんですけども、それは総代は総代としての一人一人の信心でです。
 親先生はああおっしゃるけども、自分のは形だけだと本当に教会発展を祈りよるばってん、果して教会はってんのために祈りよるけど、その内容を思うてみるとまだまだ足りない事ばっかりだと思うです。もう神様があの氏子は安心じゃとおっしゃる程しに、自分の心の中その中に安心立命のおかげが頂けておるかどうかと言う事を、もちろん検討して行かなければなりません。
 今日は油断をするとすぐ後に戻るぞと、過去私共が知って来た範囲の御信者さん方をですね、例えば三井教会ならば一番私の知っておる事、云うならば久留米の教会が一番詳しい、その私共が青年時代に熱心だったと云う総代さん方が、先ず亡くなってしまって居られないと言う事。後に信心が続いておられないと言う事。あれ程しに御比礼の輝く教会の総代まで勤めた方達がです。
 影もなくなっておる人達がいくらもあると言う事。それを私共も又そういう二の舞を踏まんで済む様な信心を頂きたいじゃないですか。間違いなしに子供達に伝えられる。子孫に伝えられる。それには、まだ私は自分は九里半の所にあるんだと言う所からです、あと半道の所をです、きついけれども、そこを修行と登り切らせて頂く、信心意欲を持たせて頂きたいと思うですね。